HANAMOGERA’s blog

乳がんと私

入院生活〜その2〜

さて、月曜日。入院前の検査だったと記憶しています。
この日は手術前検査。
なんの検査をしたのか全部は覚えてないけど、唯一覚えているのがマンモ。
マンモやってきてください、と言われたのです。
私、入院生活のパジャマは病院でレンタルにしたんです。だって1日70円とかで借りられるんですよ。
洗濯とか考えたら借りるよね。
で、餅田コシヒカリ体型の私は、ズボンよりガウン(人間ドックの時とかに着る上だけのやつ)の方が楽かなぁ〜とガウンを選択していたのが間違えでした。
マンモの部屋で、看護師さん(女性で良かった)に「はい、じゃあ上脱いでください」とサクッと言われたのです。
……沈黙
え?あ、やっちまった…
えーーーーーと…
し、下が…
看護師さん、察する。「あ!そうですね、ズボン持ってきますね!」
あーもうホント申し訳ない。忙しいのに私のために無駄な時間が…
「はい、これ履いてください」とMサイズのズボンを渡される。
もう一度言います。私、餅田コシヒカリ体型なんです。
あ、え?M?私、どう見てもMじゃないよね?と思いつつも、もう履くしかない。
いや、上がんねーよ。むっちりとした太ももで止まったズボン。。。
「えっと、あの、ちょっとちっちゃいのですが」と、尻出てますがこのままやっちゃいますか?みたいな気持ちで大笑いしながら、忙しい看護師さんの手を2度も煩わせ、無事Lサイズのズボンを頂いたのでした。
部屋に戻ってからも笑いが収まらず、この世の終わりみたいな気持ちでここへ来たのに、変にリラックスしてしまったのでした。
「着替える前に履いてたレギンスを脱がずに行けば良かった」と後悔していたのですが、もしあの黒いレギンスを履いて行ったら、それはそれで長州力だったな、と更に笑えてきたのでした。。。

入院生活〜その1〜

よく覚えていませんが、何日入院するとか先に言われてはいなかったかな。
火曜日が手術で、金曜日に入院だったように思います。
入院生活暇だろうと思ってた私はマンガを大人買いしました。当時流行っていた「のだめカンタービレ」。金曜日に紙袋いっぱいにマンガを抱えて入院した私。
でも驚いたことに私は家に帰されることになったのです。
って、別に大した理由じゃないけど、火曜日に手術なんだけど、2日前には入院手続きをする必要があるらしく2日前が日曜日で入院受付が出来ないので金曜日に受付させられただけ。「日曜日の夜に戻ってくれれば何も問題ないので帰っていいですよ」と笑顔で帰されたのでした。
私は戦に行く置き手紙のような内容のメールを職場の皆さんに送り付けていたので、金曜日のうちに家に帰って皆さんの返事を読むのも申し訳ないなぁと思いながらも、やっぱりみんなの反応も知りたくてメールを見ちゃいました。
そこには沢山のメールの返信が来ていました。
お父様がガンで服薬中の話をしてくれる人や、この一週間なんとなく私の様子がいつもと違って感じていたと言う人。
何も気づかずガンガン仕事を振ってしまってゴメンネと謝る同僚。
私の一世一代のメールに「大変な話を書いてくれていて驚きとともに、ユーモアたっぷりであまりにも文章が素晴らしすぎて何度も読み返してしまいました。」と仰る方。沢山お返事を頂き、結局涙、涙で読みました。
そして私の覚悟も肩透かしに2晩も普通に家族と過ごしてしまったのでした。。。
で、日曜の夜に正式に入院しました。

ガンということを他人に話す勇気

有無を言わさず手術が決まったのですが、全摘するか温存するかとかもっと細かい相談事があって進んでいくものだと思った私はこのスピード感に戸惑ったのを覚えています。
訳がわからず「胸は全部取るのか?」と聞いたような気がします。先生は、1年近く前からちゃんと自分で疑って受診していた私に今更ガンが見つかったこで、なんせ急いで対応したかったんでしょうね。
「いや、腫瘍の部分だけであとは切除した腫瘍を検査してから考えましょう」みたいな。
正社員で4月に育休から復帰して2ヶ月でこんなことになってしまった私。
上司は育休中に変わっていたので、ほぼ「初めまして」みたいな男性。でも2週間後には手術が確定しているのですぐにでも報告せねばならない。翌日、私は自分自身がまだ受け入れられていない状況を言葉にして他人に報告せねばならなくなったのだった。
お局様先輩の女性と直属の部署長の男性に、朝イチ「お話があるのでお時間頂けませんか?ここではなく、ちょっと食堂で」とこの世の終わりのような顔をして伝えました。
私は明るい性格で会社ではムードメーカーというかお笑い担当みたいな存在なので、こんな朝でもみんなの前では基本明るく振る舞っていたように思います。
先輩女性は「また妊娠か?」と思ったそうです。
社食の個室で、先輩とほぼ初めましての上司をを前に言葉に詰まりながらも「実は、乳がんとの診断を受けました」と必死に絞り出した時にはポロリと涙が溢れました。
上司もまさかそんな話をされるとは思っておらずアタフタ。
今までの経緯、2週間後に手術を予定していることをボロボロに泣きながら伝えました。「辞めた方がいいと言われるのかもしれないが、今はそれを考える余裕もなくとりあえずお休みをしたい」と。
本来であれば自分自身が受け入れることもまだ厳しい状態で、これを他人に話すことは本当にキツかった。でもこのスピード感が考える時間を奪ってくれて、結果的には助かったのかもしれないと今は思います。
上司はアタフタするばかりで「いいよ、いいよ。気にせずお休みしてください。でもね、今経緯を聞いて僕は個人的にはそんな悪い状態では無いのではないかと思ったよ。ガンじゃなかったものがガン化してかなり早い段階で見つかったんだと思う。大丈夫だと思うよ。僕はそう感じたよ。」と言ってくれた。
女性の先輩は、私の落ち込んだ態度の理由に納得しつつ「今のマスカラって泣いても全然落ちないのね。」と言って笑わせてくれた。
そこから2週間、普通に出勤したが周りの人たちに言うべきか悩んだ。
手術後2週間はお休みを頂く予定にしており、無言で休むことは出来ないなとは感じていた。
でも自分の口からこれ以上話すことは難しいし、時間もかかる。どうしよう、どうしようと思っているうちに入院になってしまったのでした。
手術前の2週間は、ちょっと考えるとウルっとしてしまうことはあったが、子供達の送迎、家族との日々の生活で、泣いては上を向き泣いては上を向きの繰り返しだったと思う。このバタバタした日常と家族の存在には本当に助けられた。
そして何も言えないままお休みに突入することになってしまった。
私は笑いを交えながらこの状況をメールで伝えることにした。入院の前夜「実は・・」というメールをグループの社員や派遣さん、女性も男性もひっくるめてかなりの人数にメールをしました。
こういうのって必要最小限の人にだけ話して、上司からなんとなく濁してお休みを報告してもらうことが多いのかもしれないが、なんかそれは出来なかった。信頼している人たちだったし、理由を言わずにお休みすることも復帰することも私には出来ないと思った。
大泣きしながら長文を書いた。笑うほど大泣き。でも「乳がんになってしまった。ガーン!」みたいな軽いタッチで書いたんですけどね。
メールなので落ち着いて、私の最大のユーモアを交えて後世まで残したいような名作文を書き上げました。
送った後で読み返したら「朝からヘビィな話ですみません」が「朝からベビィな話ですみません」になっていてガッカリ。誤字!!
ま、それも私らしくていいかと。

告知

この時のことはまだよく覚えています。
細胞診の結果は2週間後くらいだったと思います。この2週間は本当にいつも地獄です。
結果は一人で聞きに行くつもりで、子供達のお迎えを義母に頼みました。
心配かけたくなかったので今まで検査していたことは話していなかったのですが、この時初めて軽く経緯を伝えて再検査に行くと話しました。
「葉状腫瘍かもしれない」とも言われていたので、あまり心配しないようには伝えていました。
診察室に入ると、先生から「うーん、ちょっとガン化がみられるんだよね。ガン化している。乳がんだね。」と言われました。9ヶ月前の私は半分くらい覚悟していたのですが、その時の私は「違うだろう」という気持ちの方が強く「え、なんで?」という気持ちでした。
先生も「なんでだろうねぇ。僕もあとでチェックしたけどちゃんと細胞採れてたんだよ。」と9ヶ月前細胞を採った若い先生のことを言っていました。
この後も続くけど、ホントあの若い先生は私と処置の相性が悪かったんだよ・・・
だから早く来たのに、だから早く検査してもらったのに、違うって言われて安心したのに、その後も通ったのに、結局ガンなの?
そんな気持ちとこれからの不安が一気に押し寄せて呆然としてしまったのを覚えています。
診察室の外のスペースに出された時にはホロホロと涙が出てきて、看護師さんに「ビックリしちゃったよね」と背中をさすられながら慰められました。
でもこの「良性と診断したけどやっぱりガンだった」という結果は、その後いい感じに私に作用してくれたように思います。
先生も私と同じことを思っていたんでしょうね。病院は「誤診」と私に騒がれないよう(私が勝手にそう感じたんだけど)ものすごいスピードで全てが動いたのです。
確か、もう一度検査をするからちょっと待ってて、とその日のうちに再度エコーなどをやった気がします。待たされる間に私は夫へ連絡したのですが、「ガンだった」と告げるのが精一杯でした。夫は「すぐ行く」と仕事中だけど病院まで電車とバスを乗り継いで飛んできてくれました。
この時、涙を堪えて息子の英語塾に「今日休みます」と電話した自分の冷静さが笑えます。
再度診察室へ入った際には夫が居て、先生も「あ、良かった。旦那さんも来てくれたんだ。じゃあすぐ手術の日を決めちゃおう。」と、有無を言わさず、2週間後に手術をすることが決まったのです。

そして発覚まで

ガンではないとわかってからも「念のため」と3ヶ月に一度検査に通うことになりました。
どんな検査をしていたかも忘れてしまったのですが、基本は触診だったと思います。血液検査とエコーも時々やったかな。
大学病院に何回か通ったのですが、3月だったかな。先生から「この病院は病気の人を診るための場所で、病気がない人が検診に通う場所ではないので、信頼のある乳腺科の病院の先生を紹介するのでそちらへ通ってみてはどうかな?」という提案を受けたのです。
次回、3ヶ月後に丁度その先生が来るので顔合わせをして移ることを検討してください、と。
なんとなく不安だなぁと思いながらも断ることも出来ず、その提案を受けました。
で、3ヶ月後。
「今日ね、その先生急遽来られなくなってしまったんだよ。せっかく来てくれたから、一通り最後の検査をしようか」と、マンモ、エコーなどの検査を一通りしたのです。
すると先生が神妙な顔で「腫瘍が大きくなっている。2cmくらいになっている。ちょっと心配だから検査した方がいい」と、急遽2度目の細胞診、腫瘍に針を刺して細胞を採って調べる検査をすることになったのです。
ここでついにガンが私の中に発見されることになるのですが、それはまた次回。
検査に通っていた当時、私は育休中だったのですが4月に復職。下の子もお兄ちゃんと同じ保育園に入園し、一安心してこれから頑張ろう!と思った矢先。
その2ヶ月後の6月に乳がんが発覚してしまったのです。

先生の話

乳がんかもしれない、となってから私はよく高校の担任の先生のことを考えていました。
私がこんなことになる3ヶ月前。私の高校の担任の先生だった女性が乳がんで亡くなったのです。母と同じ45〜6歳で、仲良しだった私はかなりショックを受けていました。
先生は10歳程度しか違わない若い先生だったし、丁度私の母が亡くなって、先生と密に話す機会も多かったこともあって、とても仲良しでした。卒業してからも友達感覚でみんなで家に遊びに行ったり、就職してからも仕事の出先で待ち合わせしてランチしたり、飲みに行ったり。
遠方での私の結婚式にも参列してくれた大好きな先生でした。
実は私は先生が受け持ってくれた時のクラスメートと結婚したのです。
先生が初めて担任を持ったクラスの生徒同士なので、子供が産まれた時も真っ先にメールしたし、落ち着いたら子供を見せに行こうと思っていました。でも産休が明けて復職して日々の生活が忙しくなかなか会うことも出来ず。
二人目を出産した時も出産後のベッドの上から写メを送ったりして「今度こそ会いに行くね!」なんて話していたのです。でも翌年の6月に先生の訃報が飛び込んできて、子供たちを会わせられなかったことをとても悔やみました。
でも葬儀の際にお兄様から乳がんだったことを伺い、会わせなくて良かったかな・・・という気持ちにもなりました。
胸を無くしていたかもしれない、抗がん剤をしたかもしれない。出産を諦めたかもしれない。もしかしたら自分の結婚を諦めるような気持ちになっていたかもしれない。
そう思ったら、幸せそうにヘラヘラと子供たちを見せることは酷だったかもしれない、と。
会わせなくて良かったのかもしれない、と。
そして自分がいざその立場になった時、私は先生を思い、悲しくて悲しくてたまりませんでした。私は不安と恐怖に日々怯え、夫に寄りかかっていました。子供達がどれほど自分の励みになったか、子供達、夫、家族の存在に助けられて日々を過ごしていました。
でも先生は一人だったのではないか、遠方に住む家族に寄りかかることも出来ず、先生を続けながら、家に帰って日々一人で泣いていたのではないか、そう思ったら本当に苦しかった。
先生、一人で頑張ったのかな、と心が痛くて痛くてたまらなかった。
死ぬことってとても恐怖だけど、あの時は本当にそれがちょっと怖くなかった。
もしも私が死んでしまっても、母や先生に会えるのかな、と思ったらそれも悪くないな、なんて。
人間はそうやって歳をとるのかな。「早くあの人に会いたいな」とか思いながら、お婆ちゃんになって死んで行けたら幸せなのかな。

病院へ

母の亡くなった病院へ足を運ぶことになったのですが、その時のことはあまり詳細には覚えていません。
確か、1人で行ったような気がします。上の子は保育園、下の子が1歳になったばかりだったので、旦那にみてもらっていたのか、義母へ預けたのだと思います。
検査は1日がかりだったんじゃないかなぁ。紹介状を持って母が亡くなった大学病院へ自分で車を運転して行きました。
マンモ、エコーをやったのかな、確か。若い男の先生だったのですが、この人、その後も関わることになるのですが、私とはかなり相性の悪い方でした。相性が悪いというのは、性格が合わないとかいう話ではなく、この方の腕が悪いのかこの先生と私の処置の相性が悪かったんだよね。まぁそれはおいおい書くとして。
マンモ、エコーの結果、しこりの大きさは1.5cmくらい。結局グレーゾーンだった私。ガッツリ検査しましょう!ってことで生検?細胞診っていうの?それをやることになりました。
胸に太い針を刺して、しこりの一部を取り出して検査するのです。
そんなに痛かった覚えはないから麻酔したのかな。エコーでしこりをみながらブスッと刺してホッチキスみたいに「バチッ」と音をさせてしこりの細胞を取り出しました。
結果は2週間後。。。
に、2週間もまたこの地獄のような日々を送るのかと落ち込んで帰ったことを覚えています。
この2週間は本当に地獄だったように記憶しています。保育園の送迎とかは平静を装って、ママ友とも普通に話をして元気を装って、子供たちにも普通に接するようにしてたけど、旦那と2人になるとメソメソ恐怖をぶつけていたように思います。私より夫の方がしんどかったかもしれない・・・
焦らしても仕方ないので結果から言いますと、この時の私からはガンは見つかりませんでした。
乳腺線維腺腫。良性という判断だったのです。
結果を聞きに行くときは夫にも来てもらったのですが、待合室にいる夫の顔を見て「大丈夫だったぁ〜」と泣いてしまったのを覚えています。しかも隣の小児科にたまたま子連れで高校の同級生が居て、我慢したのだけど泣けてしまって、その子も「心配だったよねぇ。良かったねぇ」なんてちょっと目立ってしまったのを覚えています。
結果を話してくれたのは検査の時とは別の女性の先生だったのですが、良性と聞いた私が「良性でも手術して採ることはできないのですか?」と聞くと、ちょっとムッとしたように「悪くないのになぜ採るのですか?悪くないものは基本採りません」とピシャリ言われ、そのまま引き下がったのでした。
そっか、悪くないものは採らない時代なんだな、となんとなく納得したのでした。
実は私の母は、乳がんになる前にも一度入院して腫瘍を採っているのです。
確か私が小学校に上がる前だったと思います。子宮筋腫みたいなことを言っていたように記憶していますが、採った結果は良性で、腫瘍の中には髪の毛や歯が入っていた、という話をなんとなく覚えています。
乳がんになった母が「あの腫瘍を採ってしまったことで全身にガンが勢いよく巡ってしまったのではないか?」なんてことを言っていたことがあったので「今の医学では悪くないものは採らないんだ。それが正しいんだな」と勝手に納得してしまったのです。