HANAMOGERA’s blog

乳がんと私

初めての検査

さて、自分の話をしましょうか。
あれは2010年の9月頃だったと思います。娘とお風呂に入っていた時に自分の左胸にしこりを見つけたのです。
それはそれは衝撃で、子供の声がドンドン遠のいて、目の前のものも見えなくなる。目の前が真っ白になるような、もう瞬時に「死」を意識した私でした。。。
その晩すぐに夫に伝えると、彼も普段とは違って「すぐに病院いって」と。
住んでいる町は夫の実家のそばで、私はこの土地で自分の病院に行ったことなど一度もなかったので、まずは病院探し。乳がん検診をやっている病院で、娘を連れて行けるなるべく近い病院。
乳がん検診の出来るマンモのある病院へ翌朝すぐに予約を取り、娘を抱っこして行きました。
たぶんこの世の終わりのような顔をして半ベソ状態だったと思います。
マンモをするときは娘は看護師さんが抱っこして待っていてくれました。
男性の技師さんだったと思います。初めてのマンモでしたが、さほど痛みはなく、まだ母乳も出ていたので気を使って頂いたような記憶があります。
で、診察をして頂いたのですが、一体何科のお医者様だったのかも記憶にないのですが、その先生は「一般的にはこう言われています」という知識しかなく、「輪郭がハッキリしているともぼやけているとも言い難い。乳腺科のある専門医に見てもらった方がいい。どこかある?紹介状出すよ」と。
「僕はここの病院がいいと思う」と勧められたのは、なんと母が闘病し亡くなった病院。
私はショックのあまり涙を流してしまい「他の病院にしてください。母が乳がんで亡くなった病院です。そこには行きたくない。他の病院にしてください」私はバカみたいにわがままを言いました。
今思えばありがたいことですが、涙を流す私にひるみながらもその先生は引かなかった。
「僕はちゃんと診断が出来る病院がいいと思う。ここの病院がいいと僕は思う」と。私はそれ以上何も言うことは出来ず従うことにしました。
20年ぶりに母の亡くなった病院へ足を運ぶことになったのです。

乳がんとの出会い

別に出会いたくはないですが、出会ってしまった乳がん
その初めは小学4年生の頃にさかのぼる。
主は私ではなく私の母。
傷跡も覚えているし、自分が患った時には、まだ母のどちらの胸だったかも鮮明に覚えていたのですが、今はかなり記憶が薄れてきています。たぶん自分とは逆だったと記憶しているので、右胸だったのだろうと思います。たぶん・・・
母は右胸(たぶんね)を全摘し、その後 抗がん剤治療に苦しみ、元気になって日常に戻ったこともありましたが、結局6年間闘病、入退院を繰り返し、45歳、私が15歳 高校1年生の夏にこの世を去りました。
母は本当にドラマの闘病のように吐き気に苦しみ、抜ける髪に涙し、今思えばとても辛そうでした。
でも私は思春期真っ只中で、母の言うことも聞かず、わがままで優しさのかけらもないとんだバカ娘だったことを心から申し訳なく思っています。
まぁ私以上に、俗に言う「不良」だった(時代的にヤンキーではなく更に古い不良です)兄がいたので(もちろん今もいます)基本真面目っ子だった私はまだマシだったというか、彼女の心配の種ではなかったはずなのですが。。。
話はそれましたが、私の乳がんとの出会いは母。
乳がんは、愛する母の命を奪ったにっくき病気だったのです。
でもこの出会いは私にとって予習であったり、危機感だったり、私の物差しになったことは言うまでもありません。母の命が尽きてしまったことで私の命は守られたのかもしれません。
だって私は、面倒くさがりで何かあってもすぐに病院を受診するタイプではまったくなかったのですから。

まずは自己紹介

まずは自己紹介から。

私は46歳。(37歳から歳を忘れることにしたので、永遠の37歳ってことで)

同じ歳の夫、中二の息子、小五の娘の4人暮らしです。


36歳の時に乳がんの診断を受け、左胸を1/4くらい削る温存手術を受けました。

放射線治療抗がん剤、一通りやりました。再発もなくこのたび10年を迎えようとしております。


これから少しずつ乳がんのこと、日々のおもしろ話などあれば綴ってみようかと思っています。

どうぞよろしくお願いします。 ※年齢は、すべて2021年2月時点の年齢です。